2016年8月

8月 22nd, 2016 Posted in コトバ | no comment »

迷わなくなるのが念仏の信心ではなく、迷わずしては生きていくことはできないと気付かせてくれるのが念仏だと思います。

瓜生崇

この夏、小学校の同窓会がありました。

卒業して28年も経ったんです。

 

40歳。みんないい歳になりました。

お互い色々あったことへの共感であったり、懐かしさであったり、同級生というのは、普段会う友人とはまた違う感覚でした。

地元にも長年居らず、一時は日本にもいなかった自分にとって、初めて会うわけでもなく、長年一緒にいたわけでもない、とても不思議な距離感でした。

 

それぞれに話を聞いていると、平坦な人生なんてないのだと気付かされます。

 

さて、40歳と言えば、孔子の論語に「不惑」という言葉があります。

十有五にして学に志す(志学)、三十にして立ち(而立)、四十にして惑わず(不惑)と続くわけですね。

私で言えば、10代は散々遊んでいました。(笑)

20代で結婚や就職をして、色々と怒られたり教えられたり失敗したり、とにかくたくさん初めての経験をしながら学ぶことをしていたような気がします。もちろん、今でもそうですが…。

そして、30代で少し自信がついてくると有能感に溺れやすくなったり、また認めてもらいたかったりして、今思えば思春期のようなモヤモヤを抱えていたように思います。

 

そして今、数えの40です。不惑。

友人との会話でも「不惑?全然。ますます迷うよなぁ」なんて話をしています。

 

でも、不「惑」であっても不「迷」ではないのですね。

 

惑や迷ということで言えば「迷惑」という言葉があります。

私は常々、迷も惑もまよいではあるが、惑とは迷っている意識すらない状態で、迷とは迷っているということを自覚した状態だと教えてもらっています。

 

振り返れば今まで、だんだんと仕事に慣れ、人生に慣れ、何もかもわかったつもりで錯覚し調子に乗り、他人の欠点ばかりが目につき、人とぶつかり叱られたりしながら、互いに傷つき合いながら過ごしてきました。親切に忠告してくださる人はむしろ分かってくれないのかとがっかりするんです。

 

この、私こそが正しい。私がやってきたことが間違いない。文句を言われる筋合いはないというスタンスが、「惑」なのだそうです。

また、ほんまにそうか。このままでええのか。文句を言われても言い返せない自分であったのではないかと気がついたのが、「迷」なのだそうです。

 

つまり、どちらも迷いなのですが、迷いかたが違うのです。

そのことを藤場俊基先生が次のようにおっしゃっています。

 

『こういう自覚がない迷いと言いますか、確信に満ちた迷い、これが無明という一番やっかいな迷い方です。(中略)こういう状態にある時は、道を求めるなどということは起こるはずがありません。道を教えようとする親切は、よけいなお節介でしかありません。お母さんがついてきて、あれをしろ、これをするなと言えば、むしろ邪魔になるのです。

道を求めるとか、帰り道を探すというのは迷ってしまったと気付いた時から始まることです。求道を始めさせるのは迷いの自覚です。ですから迷いの自覚の中にはすでに「明かり」があるのです。明かりがさしこんでいるからこそ迷っていることが自覚される。それは有明(うみょう)です。確信に満ちている時こそ無明の中にどっぷり浸かっている時です。』 

藤場俊基著 『親鸞の教行信証を読み解くⅠ』 明石書店

 

不惑というのは、ようやく惑うていた自分の浅はかさに気付かされるということなのかもしれませんね。

 

しかし、孔子は四十にして惑わないそうですが、私はどうでしょうか。

しらないウチに惑うてしまうのです。きちんとしたいのですが、しようとすればするほどいつも惑うのです。なんででしょうね。(笑)

いつもそれで「またやってしまった」「ごめんね」と後悔してばかりです。

 

私が聞かせていただいている仏教は、私が確かな存在になって救われる教えではなく、凡夫になって救われていく教えです。

惑う身が迷いの身に帰って救われていく教えです。

 

仏の教えを通して自覚し、惑う眼からの細かな解放の連続が救いの連続であるといってもいいのではないかと思います。

そういう意味では、道を賜るということは幸せなことです。道を賜るということは、方向が定まるということです。

私がきちんとするのではなく、念仏申す身となり、仏道を歩ませてもらう。

 

それ以外はまた惑いの元です。

なぜなら、私が全ての物事を自分の手柄とし、正当化し、惑いの元としてしまう。

そういう存在だからです。迷惑ですね。

そう、まさに迷惑するというのが私の標準仕様なんです。

2016年7月

7月 20th, 2016 Posted in コトバ | no comment »

人間には、裏切ってやろうとたくらんだ裏切りより、

心弱きがゆえの裏切りのほうが多いのだ
La Rochefoucauld

実は先日facebook(フェイスブック)で次のような投稿をしました。

 

人は弱い

仮に無意識であっても、涙や弱さとしてよりも

それは

悪口として 愚痴として
冷たく当たることとして いじめることとして
そして、裏切りとして

表出する。

それらはすべて
エゴであり善ではない。
独善的な保身であり
実際には破滅への一本道でしかない。

でもその時、当の本人には
善であり正義にしかみえない。

 

すると多くの方が共感してくださいました。お一人お一人にご意見を伺ったわけではないので、どういう思いで共感してくださったのかまではわかりません。
でも、何かしら心当たりがあるのでしょうか。

 

そういえば、大通寺の「夏中」で兄が五怖畏(ごふい)のことを話していました。

1.不活畏(ふかつい)。食べていけるだろうかという畏(おそ)れ。

2.堕悪道畏(だあくどうい)。なんだか悪い道に堕ち込んでいくんじゃないだろうか。この先、この時代。この私たち。そういう畏れ。

3.悪名畏(あくみょうい)。人から悪い事を言われるんじゃないだろうかという畏れ。

4.死畏(しい)。死んでしまうんじゃないだろうかという畏れ。(命終畏(みょうじゅうい)ともいう)

5.大衆威徳畏(だいしゅういとくい)。みんなの前で恥をかかされるんではないだろうかという畏れ。

 

私たちの行動の背景には畏れがあり、普段から怖い恐ろしいと思って生活しているのだという話でした。

 

不安なんですよね。もちろん、私も不安です。

今のままで将来やっていけるのだろうかという不安は常にあります。経済だったり、健康だったり、挙げればきりがありません。

 

そんな中、不安や恐怖心から逃れる方法がわかればいいのですが、誰も知りません。

幸せになりたいと思いながら、誰もどうなったら本当に幸せで満たされるのか、知りません。どちらに向かっていけばいいのかわからないのです。

 

どちらに向かっていけばいいのかわからないから、様々な選択肢に直面すると、さしあたっての無難を願い、考えることを先延ばしにし、曖昧な判断を下しているのが私たちの実際のところではないでしょうか。

 

三国連太郎さんが次のような言葉を残しておられます。

『さしあたっての無難を願う』という小さな我執が人びとの心の中にあるために、支配権力はまことに都合よく人びとをだましうちにすることができるのです。

私たちはその心弱い部分を正当化する。合理化する。

そこに権力はつけいってきます。

人びとの心の底に巣くっている自己保身のエゴイズム、それを正当化しようとする考え方や観念を自力分別心というのです。

この自力分別を積み重ねていくと、小さな保身の思いがやがて社会全体をおおい、非人間的な深い亀裂と断層をもたらします。

 

いかがでしょうか。

このことばは支配権力と我々民衆というところで語られていますが、着目すべきは私たちの自己保身、小さな我執がすべての不幸を生み出す源だとおっしゃっているところであるように思います。

 

仏法は私の事を罪悪深重煩悩熾盛の凡夫と呼びます。

対して、私の中の小さな我執、自己保身のエゴイズムは「悪いことなんかしていない」と反論します。

 

しかし、悪とは何か?と問うた時、ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェ

「弱さから生じるすべてのものである」と言っています。

 

であるならば、行く先もわからないのに、自己保身のエゴイズム(煩悩熾盛)を疑問にも思わず正当化し、人や境遇と衝突しながら、のぼせ上がったり悲しんだりしている私はまさに罪悪深重であるとしか言えません。

 

その事実は私にとって悲しいことではありますが、同時に先達より聞かせていただいている阿弥陀さんの救いのお目当ては、まさにそんな私でもありました。

 

障りが障りとならず、むしろ真の智慧に向かわしめる縁となる。

有難いとしか、言いようがありません。

 

2016年6月

6月 15th, 2016 Posted in コトバ | no comment »

人は気分でしか物事を考えることができない。

 

今月のことばはfacebook(フェイスブック)で見かけた一文です。

見ただけで、「ほんまにそうやな」と納得した記憶があります。

 

そのことを月参りに伺った際、あるご門徒さんにお話しいたしましたら「人間は感情の動物だからね」とおっしゃり、色々と例をあげてくださいました。

 

頼みごとをする時に、タイミングを間違えると引き受けてもらえなかったりすることや、気圧の高低差で外の天気だけでなく、心の天気も影響される様なことです。

 

確かに私自身、晴れ晴れとした青空をみると気分がいいことが多いのですが、天候が崩れると古傷が痛んだりして、体調も気分も晴れないことがあります。

 

体調がすぐれないと、いつもなら流せるような些細なことでも何だか気に障るということがあります。

そして、そういう時には、かならずといっていいほどイライラの原因を自分以外のせいにしています。決して自分のことは問いません。人のことばかりです。

 

こういうのを無明の闇というのでしょうね。

仏教では無明の闇と書いて我々の迷いのことを表現しますが、藤場俊基師

 

「無明とは確信の感覚である」

とおっしゃいます。

 

つまり、闇といっても確信しているのですから、実際は明るいつもりなのです。何も見えていないわけではなく、全て分かっている、見えているつもりの状態です。

また、レディー・ガガ(米国・音楽家)が次のような言葉を言っています。

 

If you don’t have any shadows, you are not in the light.

(もしあなたに影の部分がないなら、それはあなたに光が当たっていないということ)

 

暗闇にいては、光の存在を感じることもなければ、自分の影が見えることもないのと同じです。光が差して初めて光と影の存在を知るのです。

ですから、自分の考えのものさしを問うとか、自分が気分で考えているかもしれないなどと考えてみるということがおこるはずもありません。

仏教はそういう私たちのことを別の言い方で

 

「罪福信」という迷いを生きている存在だ

 

と教えてくださいます。

 

簡単に言ってしまえば、自分に都合のええことが好きで都合の悪い事はいややということです。そして、その思いから出ることができずに、自分の思った通りの人生にならんかなぁと日々もがいているのだそうです。

 

都合の悪い事(悪い人)はいやです。だからいやな事(いやな人)は避けるために、自分の都合に合う理屈をこねくり回して回避しようとしながら生きてしまいます。

 

それでも、いやだと思った人が良い事をしてくれると「今まで悪かったな、これからは仲良くしよう」と思い、良い人だと思っていた人が都合の悪い事をすると、今までのお付き合いがどんなものであっても、「あんな人やと思わんかった」と嫌悪感を抱きます。

 

ものさしのメモリがコロコロと変わってしまうのです。

やはり気分で考えてしまっているのでしょうね。勝手なもんです。

 

そして都合に合わないことが続くと、「最近調子悪い」とか「もうあかん。神も仏もあるもんか」と悲観してしまうこともあります。

でも、こういう時の神や仏は都合(気分)に合うか合わんかの存在なんですね。もう畏敬の念なんてありません。

それほど勝手なのに、自分の気分や考えのものさしを見直すことはしないんです。

 

よく勘違いしてしまうのが、仏教は私たちが気分で物事を考える存在であると教えてくれてはいても、気分で物事を考えてしまう私たちのことをダメだと否定しているわけではないということです。

 

それでも「いい話」を聞くと私は「気分で物事を考えるのはダメだからやめて、理屈できちんと考えるようにしよう」と考えます。

 

なぜなら、良い悪いの分別ができるつもりである私は、何でもちゃんと見えている、ちゃんと知っているつもりです。だから、話を聞いて気付いた自分のこともしっかりわかっていて、考えた通りの自分になれるつもりで、何とかしようとします。

 

そんな「つもり」人生ですから、自分の人生が自分の思った通りになっていると「思った(感じた)」とたんに得意になるんです。

そして、自分の人生が自分の思った通りになっていないと「思った(感じた)」とたんに「もうだめ」なんです。

 

「もうだめ」なのは、人生ではなく私の気分であり、ものさしなのです。

 

私が私と言っているこのいのちは、私が考えて生まれてきたわけでもなければ、考えて生きているわけでもありません。私の考えを超えたところで生まれて生きて死んで行く人生です。私にどうにかなる程度のものではないでしょう。

そのいのちそのものを私の気分や考えのものさしで価値や重さまで決めるなんて、おかしな話だとは思いませんか。

 

聞法とは 私の「考え」の 物差しが 教えによって 問い返されること

                                                                                                池田勇諦

と教えられています。

良い気分のときも、そうでないときも、揺らぎながら共に聞法いたしましょう。