2018年8月

8月 19th, 2018 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

はてさて困ったことには
知っていることは何の役にも立たず

肝心のことは何も知らない

ゲーテ『ファウスト』より

 

寺報に書くべき内容が思い付かず悩んでいました。
(ここに書いている事は寺報としてご縁のある方にお配りしています)
しかし、「書くべき内容が無い」という事は、「書くべき」事があると思っているという事です。
多くの方の感想に一喜一憂するうちに、寺報に対して「こうあるべき」という思い込みが出来ているように思いました。
本当は何でもいいはずなんです。この文章のタイトルが「徒爾綴」(いたずらなさま。むだなさま)なんですから。

そういう意味では、もしかしたら自分のやってきた事全てが思い込みではなかったかと思わないでもありません。

今までのあらゆる仕事、あらゆる用事が「これで良し」「こうあるべき」と自分がイメージし、納得できる形での行為でしかなかったのかもしれません。決まりのないところに「前例」という決まり、スタンダードを作り続けているように思います。

その思い込みがたまたま周りの方々と合致すれば褒められやり甲斐を感じ、合致しなければ思うようにならない虚しさを感じる。ただそれの繰り返しであったのかもしれません。

そうして40年以上、色んなことをして生きてきましたが、「肝心のことは何も知らない」のです。

いつも新しい執着、自分の納得を探していつまでも迷っているのです。

教えを聞いても納得できれば有難がり、納得できなければそっぽを向く。
人間関係も仕事も何もかもその調子です。
自分以外の確かなものを求めていても「自分の納得」が判断基準なら、それは同じ事の繰り返し。到達点はいつも出発点なのです。

「空過(くうか)」という言葉があります。
「ボーっと無駄に過ごすこと」かと思っておりましたが、先生には「空過とは気忙しくやるべきことに追われている状態のことで、その時が過ぎてから空過したと気が付くのだ」と教えていただきました。

つまり求めるべき肝心な事を知らないまま、いつも自分の納得だけを探し求めて、常に不満や不安を抱えながら忙しい忙しいと同じ所をグルグル迷う、そんな人生を「空過」というのでしょう。
どうしたらいいのかわからない者がその場その場で納得する理由や根拠なんて、掴んだ途端に色褪せるものです。

人生において輝いて見える魔法のことば「意義・価値」もそうなのかもしれません。

「私」から見出す「意味・意義・価値」は、結局私の考えそのものなので、状況や嗜好が変わればすぐに吹き飛ぶようなものです。
そこに確かな救いなどないのでしょう。
繰り返し教えを聞き、本当に願うべき事、求めるべき方向を賜りながら、私の人生の現在地を確かめつつ歩む他ないのだと思います。

2018年7月

7月 19th, 2018 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

「おかげさま」と言える人生に孤独はない

 

「おかげさま」この言葉はよく口にする言葉ではありますが、おそらく日常では挨拶のように口をついて出ている言葉ではないでしょうか。

先月9日、「おかげさま」で前住職・瑞華院釋尼惠香(宮尾惠美子)の13回忌をお勤めさせていただきました。

ご門徒をはじめ多くの方がお参りくださって、素晴らしいご法事をお勤めしていただけたと感謝しております。

よくご法事をお勤めして「やれやれ」と思ってはいけないと言うお話を聞きます。

ところがやはり「自分の苦労や努力」を誇っているかのように「やれやれ」と思ってしまいました。一体誰のための仏事であったのでしょうか。

実は今回のご法事直前はいつも以上に慌ただしいものでした。途中親戚やご門徒のお葬儀など色々突発的な事もあって、どうにも考えることやることが多かったのです。

夫婦一緒に作業をしている余裕もありませんでしたので、時間に追われるように、黙々とそれぞれができることをやっていました。

当日を迎えても、お参りの方や出仕の僧侶方が気になります。また、次第やお荘厳に不備はないか。

お下がりは、お料理は、お酒は、挨拶は。

まだまだ心は落ち着きません。

そして御斎(おとき)の席でお酒もいただき、ようやく少し落ち着いてきた頃、ふと気付かされたことがありました。

あれやこれやと用意をして大変ではあったものの、お参りの方がおられなかったら、このご法事は成立しなかったわけです。お導師や法中さん、外陣方のみなさんがご出仕くださらなくても、親類や家族の協力がなくても成り立たなかったのです。もちろん料理屋さんなどもそうです。

どなたが欠けても絶対にこのご法事は今回のように勤まることはなかったのです。

心のどこかで自分一人の大変さ、自分のやったことを手柄にして、「やれやれ」などと口をついて出る私です。

今回のご法事は、実は一人では何もできないでいる私が、「おかげさま」のど真ん中で自分の役割を勤めさせていただいただけであったと気付かされる機縁でもありました。

普段の「挨拶」では感じきる事ができていなかった「おかげさま」を、改めて実感させていただける時間でした。

本当にありがとうございました。

2018年6月

6月 4th, 2018 Posted in コトバ, 徒爾綴 | no comment »

無明とは確信の感覚である。藤場 俊基 師

先日、日本大学アメリカンフットボール部の選手が危険なプレイをして、相手チームの選手に怪我をさせてしまった件が世間を騒がせています。
そんな中、怪我をさせてしまった選手が自らの非を認め、悔い、改めて関係者と相手選手に対して謝罪と事の真相を伝えようと会見を開きました。

 

日大選手が行ったことはとても悪質です。
ところが、会見での姿勢と誠実な答弁に共感したという方が大勢いらっしゃいました。
それはきっと、この件を日大だけの問題でなく、日本の縮図であるとご覧になったからではないでしょうか。

 

人は組織(周囲)から追い込まれると、自分の思いに蓋をしてしまう事があると思います。
そうして組織とそれに従う自分を肯定しつつ周りに合わせて、何事もなかった平穏な日常であるかのように振る舞おうとします。
ところが実際は自分を誤魔化している状態なので、上手く思考は定まらず、振り返れば何故そうなったのかも分からない様な失敗や間違い、軋轢が生じてしまう事があるのでしょう。
自分の生きる組織や環境によって、大なり小なり正しさの尺度が狂う事は誰にでも起こりうる事で、別に珍しい話ではないと思います。

 

とは言え、どの様な場所であっても絶対的な立場であったり、いつも周囲に忖度を迫るような圧力がある状況というのは大変危険だと思います。

なぜなら、心に沸き起こってきた不安や迷いと向き合わせずに、蓋をさせてしまう事があるからです。

 

以前先輩から本願とは輪ゴムのようなものだと教えていただきました。

輪ゴム本来の形を自力で周囲に合わせて引っ張り形を変えようとしても、手を離せば元に戻ります。
その輪ゴムの様に常に元の姿に戻ろうとするのが本願のはたらきであって、一生懸命頑張っているはずなのに何だか空しく満たされず不安なのは、私の根底から本願が、いのちの叫びが突いているのであって、元のいのちの形に戻ろうとするのだというお話でした。
何事も考える必要を感じないほどに上手く進み、日常の細事に流される中で、一旦立ち止まって確かめるという事がなくなったら要注意かもしれませんね。
もしかしたら、圧力をかける側か、受ける側になっているのかもしれません。

 

間違いないはずだと根拠のない確信を抱きつつ道を踏み外す私の有様を「無明」であると照らし出す確かな教え(道しるべ)によって、ようやく目印の無い人生に於いて、向かうべき方向を賜るのだと思います。

 

時に揺れ、時に迷いつつもその道しるべに導かれながら生きる道を「仏道」と呼ばれたのではないでしょうか。

多くの先達も歩まれた道です。
日常は忖度の連続です。
しかし、そんな中でも道しるべをたよりとして、自ら考え、勇気をもってこの道を往けと背中を押されているように感じています。

お念仏申しつつ、共にこの娑婆の縁尽きるまで参りましょう。